上野天神祭の歴史


  • 上野天神祭とは?

    「上野天神祭」とは、上野天神宮の秋祭りです。上野天神宮は菅原神社とよばれ、伊賀市上野東町に鎮座する、菅原道真公を主祭神とする神社です。
    上野天神祭の「神幸祭」(本祭の巡行)では、上野天神宮の2基の神輿(天満宮神輿・九社宮神輿)の供奉行列として、鬼行列と楼車(だんじり)の行列が続きます。
    鬼行列は、三之町筋に面する町々(総称「鬼町」)からの出し物です。「役行者列」が三鬼会(相生町・紺屋町・三之西町)から、これに続く「鎮西八郎為朝列」が徳居町から出されています。
    それに続く楼車は、本町筋・二之町筋に面する九つの町(総称「楼車町」)からの出し物です。それぞれの町が1基ずつ所有し、9月9日に上野天神宮で行われる「鬮取式(くじとりしき)」で決定された順番で曳き出されています。
    これら一連の行列が、「上野天神祭のダンジリ行事」として、2002年(平成14年)2月12日に国重要無形民俗文化財に指定され、また、2016年(平成28年)12月1日(日本時間)には、ユネスコ無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」33件の一つとして登録されました。
    上野天神祭の特色として、印(しるし)と鬼行列、印と楼車という、囃される物と囃す物とが対になっているということなどが、特に認められました。
    10月25日までの直近の日曜日を中心として、祭礼行事が行われます。

  • 上野天神祭の歴史
    (近世~現代までの経緯)

    1.天神祭礼の再興

    上野天神祭は、江戸時代前期の1660年(万治3年)旧暦9月に再興された祭礼です。当時「天神祭礼」と呼ばれたこの祭礼は再興というものの、それ以前のことは詳らかではありません。
    伊賀国を治めていた藤堂藩の許可のもと行われた天神祭礼の行列は、再興後程なくして丸之内(城内)へ巡行するようになりました。藩主も見物することから、町人の街として栄えた三筋町(本町筋・二之町筋・三之町筋)の町々は、出し物を競い合い、趣向を凝らした行列となりました。たとえば、3代藩主・藤堂高久が御覧になった1688年(貞享5年)の天神祭礼では、「石引」の行列や、牡丹・梅・菊の「作り花」の行列が記録されています。(『統集懐録』)。

 
 


  • 2.練物とだんじりの展開

    鬼行列のなりたち

    三鬼会の「役行者列」が天神祭礼に登場するのは、この祭礼の歴史の中で比較的古いことです。1690年(元禄3年)の記録に、「神事のねり物」「増長天」「面」と表現されており、これが「役行者列」の四天の一つ「増長天」であると考えられています(服部土芳『蓑虫庵集』)。なお、引用文の練物(ねりもの)とは、仮装の行列の事です。
    この行列は、役行者の大峰山への峰入りの様子を模したもので、大御幣(おおごへい)を先頭として、悪鬼・八天・四天・役行者・先達・ひょろつき鬼などが続きます。
    徳居町の「鎮西八郎為朝列」の登場は、それから約100年遅れ、1798年(寛政10年)頃に成立したと考えられています。源為朝が鬼退治を終え、凱旋する様子を模した行列です。

     
     

    だんじり行列のなりたち

    今日、楼車を出す本町筋・二之町筋の町々でも様々な練物が出されていました。たとえば中町では、1731年(享保16年)の天神祭礼で、鷹匠の練物から母衣武者(ほろむしゃ)の練物へと変更されたと考えられています。小玉町では、1751年(寛延4年)の天神祭礼から、今日に続く七福神の練物が登場しています。
    つまり、楼車は、それらの練物より少し遅れて登場します。江戸時代には、「台尻」「檀尻」と表記され、また「山鉾」とも呼ばれた楼車は、18世紀後半の登場と考えられています。1756年(宝暦6年)の向島町の「花鉾」や、1759年(宝暦9年)の中町の「其神山」がその原初とされています。

 
 

3.出し物の固定化と菅公千年大祭

1802年(享和2年)の菅公九百年祭を契機として、19世紀前半(化政期)に現行の行列形態が、ほぼ固定化しました。その様子は、1840年(天保11年)の版画「伊賀上野天満宮祭礼九月廿五日行列略記」(版木は、伊賀市指定文化財)に詳しく描かれています。
1902年(明治35年)4月には菅公千年大祭が行われ、こうした鬼行列・楼車の他、三筋町以外の町々などからも練物や囃子屋台がこの時限りで出され、非常に盛況でありました。江戸時代以来記録に残る紺屋町の楼車「花山」は、この時を最後に途絶えています。
なお、本祭の日程は、江戸時代には旧暦9月25日、明治初年の太陽暦採用により新暦10月25日、ユネスコ無形文化遺産登録を契機として2017年(平成29年)からは10月25日までの直近の日曜日となっています。

「上野天神祭の歴史」寄稿 首藤善樹さん

上野天神祭とは?

高田短期大学名誉教授 首藤善樹氏が研究から見出した「上野天神祭」の姿とは──? 自身の著作を当サイト掲載にあたり改稿してくださいました。
※簡明を期すため、漢文体の引用史料は書き下し文にした

 

  • I 鬼行列のスター

    ①悪鬼(あっき)

    真蛇(しんじゃ)という能面。江戸時代中期の作。
    「悪」は邪悪の意味ではなく、腕力にすぐれていること。源頼朝の兄源義平を悪源太と称し、伊賀上野では西忍町の赤井家の赤井悪右衛門の例などがある。悪鬼は鬼の大将で、鬼は役行者に従う者であり、これから修験道の開祖役行者が通るということで、先払いの役をはたしている。この面は「当町筋は三筋町ながら貧乏と申上げたところ、特に藩主より下された」という古老の言い伝えがあった(菊山当年男「上野天神祭の文化財調査報告」、『伊賀郷土史研究』第3輯所収、昭和29年)。

     

    ②役行者(えんのぎょうじゃ)

    阿古父尉(あこぶじょう)という能面。江戸時代初期の作。
    役小角(えんのおづの、おづぬ) 生没年不詳。7、8世紀にいた大和葛城山の呪術師。『続日本紀』文武天皇3年(699)5月条に「役君小角、伊豆島に流さる」とあり実在した。優れた呪術師として人望があり、のちに妬まれ讒言された。修験道の祖とされ、山伏が理想の修行者として崇拝した。大和大峰山の頂上(金峰山、きんぷせん)で蔵王権現(ざおうごんげん)を感得したと信じられている。また『日本霊異記』(9世紀初頭までに成立)に鬼神たちに大峰と葛城の間に橋を架けさせようとした説話がある。また通例の役行者像は、左右に前鬼・後鬼を従えている。役行者は鬼と縁が深かった。忍術の祖ともされる。

     

    ③義玄鬼(ぎげんき)

    能面。江戸時代中末期の作。義玄は役行者の弟子。謡曲「谷行」に、役行者の使者として義玄鬼が登場する。

     

    ④先達(せんだつ)

    山伏4人が先導する子供の山伏。奴が傘をさしかけ、いかにも高い身分の人物を想起させる。

 

⑤ひょろつき鬼

笈(おい)

山伏が入峰のとき、法具など必要な道具を入れる。江戸時代には峰中で笈渡しの作法がおこなわれた。

 

釣鐘

大峰山の頂上(1700メートル余)の蔵王堂内に、長福寺の鐘(重文指定)がある。天慶7年(944)6月2日付の「遠江国佐野郡原田郷長福寺鐘」という銘がある。このひょろつき鬼は、強力(ごうりき)が鐘を背負って険しい山を登る姿を表したものか。

 

斧(2本)

修験道の総本山である聖護院門跡や醍醐三宝院門跡が入峰する時、大斧を携行する。元来は峰中で道を切り開くための道具であるが、門跡の入峰のさいは螺鈿や銀細工の装飾的かつ形式的な大斧が使用された。斧役は門跡の前を歩くため格が高い山伏が担当した。文化元年(1804)、三宝院門跡高演(鷹司家息)の入峰に供奉した横井金谷は、大斧は2本で、柄の長さはおよそ5尺、幅ほぼ1尺、重さ5貫目であったと記している(『金谷上人行状記』)。

 

⑥鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)

民俗面。江戸時代中末期の作。
源為朝。保延5年(1139)~嘉応2年(1170)。平安時代後期の武将。『尊卑分脈』に「日本第一健弓大矢猛将也」とある。その生涯が『保元物語』(室町時代成立)に描かれる。身の丈7尺を越え、弓の長さは8尺5寸という。保元元年(1156)の保元の乱で捕らえられ、伊豆大島に流された。そのとき両肩の腱を切られたという。異本『保元物語』はその後のことも記す。島の代官の婿になり、昔通り強弓を引けるようになる。大島へ渡って10年目、沖の方に鬼ヶ島を発見して知行し、鬼の子孫という大童を連れ帰ったという。近隣の島々を従えて租賦を奪い、島民に乱暴したため軍勢に追討され大島で自害し、その首は京都の獄門に梟首されたという。曲亭馬琴の『椿説弓張月』では、大島を脱出して九州から琉球に漂着し、為朝の嫡男舜天丸(すてまる)が、琉球の舜天王になったとする。また鬼を率いて都へ上ったという伝説もある。

 
 

  • II 上野天神宮と祭礼の始まり

    慶長13年(1608)、藤堂高虎が四国伊予から伊賀・伊勢へ転封。城下町伊賀上野の外堀の南に三筋町(町屋)を作る。商工業者は三筋町に居住。三筋町以外の商売は禁止され、商人・職人は地子を免除された。
    天神宮は、元は上野城内の地にあった平楽寺の鎮守神。織田信長の伊賀攻めで焼かれ、上野村の「山ノ神」に一時移転(現在の市立図書館辺)。慶長16年、藤堂高虎の築城時、外堀の東南、向かい側(現在地)へ移された。寛永14年(1637)、二代藩主藤堂高次が社殿を大営繕。藩主が伊賀へ越した翌日、天満宮へ参拝する例となった。
    明暦3年(1657)、「祭は軽く、造作は持ち寄りたるべき事」という触書が出されたとある。これが天神宮の祭礼の初見(『宗国史』)。 ついで『永保記事略』万治3年(1660)8月23日条に「天神祭礼再興伺いの事」とあり、また「御輿丸之内渡し候儀、伺い相済み候は寅年也」とあり、寅年つまり寛文2年(1662)に初めて城内を渡御した。 菊岡如幻作の『伊水温故』にも「祭礼往日有トイヱドモ中絶シ、万治三年ニ始ル。例年九月廿五日ニ神輿二柄、列族会式ヲ乱サズ、城内・町下ノ市店ヲ遊行ス」とある。
    質素倹約令。天和3年(1683)、江戸幕府が金糸・金紗などの奢侈品(しゃしひん)を禁止。とくに江戸の山王祭について、練り物の数、人形の衣裳、携わる者の華飾を禁止した。それを受けて、伊賀でも「天神祭礼省略筋の事」が触れられた(『永保記事略』)。『統集懐録』には「江戸御法度のごとく申し付ける。よって天神祭金銀類の人形、家体の作物、刀指し候事、衣類絹布・もめん迄、用人数も減じ候様に改めて申し付ける」とある。

 
 

  • III 風流と練物

    -山とダンジリ-

    ①風流(ふりゅう)

    意表をついた衣裳を着たり、珍奇な作り物を見せたり、あるいはそれを楽器や歌で囃すこと。京都の祇園祭や諸寺院などでおこなわれ、風流から盆踊りや歌舞伎が生まれた。
    狂言『鬮(くじ)罪人』 町衆が祇園祭の山を出すことになり相談する。鯉の滝上り、弁慶と牛若丸、鵲(かささぎ)が渡す橋などの案が出るが、太郎冠者が提案した武悪の面をつけた鬼が、罪人を山へ責め上せ、責め下す場面を演じることになったという話。風流とはそのような物であった。祇園祭には役行者山・山伏山もある。

 

伏見宮貞成(さだふさ)親王の『看聞日記』(かんもんにっき)応永23年(1416)から文安5年(1448)までの記事に、京都伏見の郷民の風流の記事に「山伏峰入りの体、為明が鬼を仕る風情、高野聖石引の体」がある。
天和3年(1683)、奢侈品が禁止されたとき、「天神祭金銀類の人形、家体の作物」が取り上げられている。
貞享3年(1686)に芝居、同5年に「操り小芝居」がおこなわれた。
貞享5年(元禄元、1688)9月25日、三代藩主藤堂高久が初めて城内で祭を見物。神輿、獅子舞、石引、鹿、牡丹・梅・菊などの作り木などを披露した(『統集懐録』)。→この当時、賑やかな練物の祭になっていたと見られる。まだ鬼行列・ダンジリの記載はない。
 
服部土芳作の『蓑虫庵集』元禄3年(1690)の箇所に、「園風子の奴僕、神事のねり物にやとはれ行くに、増長天に作りなさんといへば、さいふもの終に成たる事なしとしきりに辞す。主命なれば退く所なし。
朝寒や白き息出す面の口」とある。
まず「神事のねり物」とあること、ついで「面」が注目される。増長天は四天王の一つ。甲冑を身につけ、忿怒の武将形で、鉾・刀などを持つ。現在の役行者列の四天の原形ではなかろうか。ようやく鬼らしい物が登場する。
時期は明確ではないが、江戸中期、神輿の渡御に鬼行列が供奉するようになる。神幸の露払い、悪疫退散、五穀豊穣を祈念。当時の天満宮は神仏習合で、宮坊威徳院や別当密乗院が社務を掌り、護摩や祈祷をおこなっていた。
 

②山、そしてダンジリへ

享保16年(1731)、「中町祭礼鷹匠相止め、幌武者之訴え」(『上野町旧記目録』)とある。中町が鷹匠をやめ、「幌武者之訴え」という出し物にしたのである。
宝暦元年(1751)、小玉町の出し物が七福神になった。
宝暦2年(1752)、天満宮八百五十年祭。それを契機に祭礼も変化が促進された。
宝暦5年(1755)、新町と共同していた片原町が独立し、新たな「練物印」を持って参加。→「印」の初見。
印は神のヨリシロであり、鬼行列・ダンジリはそれを後から囃す物と考えられている。しかし元来、毎年違う出し物の場合、町の印が不可欠であり、その名残と見られる。京都の祇園祭などは印がない。
宝暦6年(1756)、向島町が花鉾に変更。
宝暦8年(1758)、西町が武者車に変更。この年、三之町筋で東町の祭礼が妨害を受ける事件があった。→すでに三之町筋まで巡行していた。
宝暦9年(1759)、中町が其神山(きしんざん)に変更。→葵の双葉をあしらった作り物を乗せた山。
新町見送り幕の箱に「天明三年(1783)」の銘があった(所在不明)。ダンジリの存在を推察させる早い例。
寛政9年(1797)、西町所蔵『祭礼帳』に「たんしり」とある。→ダンジリの初見。
寛政10年(1798)ころ、徳居町が鎮西八郎為朝が鬼を従える趣向で参加し始めた。
福居町のダンジリの例。造立年代は不明。水引幕の箱に「文政八酉歳九月吉日 弘化四丁未歳八月吉日 再び之を改む」とあり、文政8年(1825)に福居町の楼車が存在したのは確実である。しかし現在のダンジリは、天保11年(1840)の祭礼行列の絵と外観が相違し、また車輪や下層の構造が他町とまったく異なり、装飾的にも完成されていることから、造立年代は下がると見られる。水引幕の箱にある弘化4年(1847)8月という銘や、欄縁金具に安政4年(1857)の銘があることから、そのころ新造に近い大改造があったと推察されている。
ダンジリは文化・文政(1804~30)頃、おおよそ現状のようになったものか。元禄~享保(1688~1736)頃に三之町の鬼行列が成立し、成熟した形を整えていく。それに対して本町・二之町は七副神・ガタガタ人形など旧態の風流のままであった。そこへ京都祇園祭の山鉾が諸地方へ広まる傾向の中、上野の本町・二之町の豪商たちの間に、豪華なダンジリを作る気運が高まったものであろう。ダンジリは豪商たちの経済力によって製造されたのである。
天保11年(1840)の木版「伊賀上野天満宮祭礼九月廿五日行列略記」(西町個人所蔵)は、ほぼ現行の行列である。ただし鬼行列とダンジリが先に行き、神幸行列が最後となっている。これが鬼とダンジリが先払いする本来の姿であろう。しかし明治になってから西の御旅ができ、さらに神社庁の献幣使を迎えて3時半に儀式をするようになり、時間的余裕がなくなった。そのため現在は朝、まず神幸行列が東の御旅を先発し、鬼行列とダンジリがその後を行く。そして本町筋の西端から、神幸行列のみ西の御旅へ行き、鬼とダンジリは先に二之町筋へ入る。それから昼食後、西の御旅を出発した神幸行列は、二之町筋で慌ただしく鬼とダンジリを追い抜いていく状態となったものであろう。
西の御旅所は金峰神社で、室町時代には西之丸の仁木氏の鎮守の蔵王権現であったが、安土桃山時代に筒井定次が現在地へ移したものである。

 
 

  • IV 鬼行列の成立

    ①松本院の由緒書

    西日南町松本院所蔵の「相改む先祖由緒書之事」(明治3年10月)に、次のようにある。

    先祖と申すは伊予国大津と申す処に候。当国へ引越し参り候儀は、山伏地福院の身内家来、松岡惣右衛門と申す者に御座候由。地福院儀は三ノ町辻氏の屋敷にて、知行二百五拾石頂戴致され候由。御祈願所修験職、相務められ候事。
    一御太守公高虎様、御病気遊ばされ候に付、地福院へ御祈祷仰せ付けられ、大峰役行者へ大願掛け奉り、全く御願にて早く御平癒遊ばされ候。右に付、御能の面を御寄付遊ばされ、役行者の形相に相用いられ、毎年九月廿五日、当社氏神天満宮祭礼の節、相勤め申候。昔より今に至る迄、辻氏の門前にて三ノ町渡り人数、相添へ申す様に承り申し候事。

 

伊予大津(おおず)は現在の大洲市で、かつての高虎の城下町であった。
藤堂高虎は元和6年(1620)ころから眼病を患い、神社仏寺に祈祷。伊賀では愛宕山大福寺(修験者小天狗清蔵が建立。愛宕神社はその鎮守社)へ祈祷を命じている(『公室年譜略』)。
高虎の能好き。高虎は慶長20年(1615)1月24日、大坂冬の陣後、上野城へ戻った。その後4月に、夏の陣が起こるわずかの間、2月に京都から今春・春藤・下間仲之など、著名な猿楽師たちを上野へ呼び寄せ能を興行している(法政大学所蔵『能之留帳』)。
地福院は『統集懐録』(加判奉行石田三郎左衛門の筆録、延宝~元禄頃成立)に「三ノ町 山伏寿福院」とある。「地」が「寿」に訛ったものと思われる。最初は寺町の南端、大善寺の南にあったが、延宝~元禄(1673~1704)ころには、三之町正崇寺の西隣に移転した。地福院は毎年7月に大峰へ入峰し、藤堂家の依頼で護摩を焚き、出峰後、祈祷札を献上していた。この地福院は享保13年(1728)に退転した。
当山派(真言宗。総本山は醍醐三宝院門跡。本山派は天台宗で総本山は京都聖護院門跡)。慶長(1596~1615)頃、三宝院が当山派の総本山となる。
寛文8年(1668)、三宝院門跡として高賢が大峰へ初入峰。
元禄13年(1700)、高賢が2度目の入峰。
享保3年(1718)、三宝院門跡房演が入峰。
門跡の入峰は全国の支配下山伏に供奉を号令し、数千人から万を越す大行列で京都を出発した。地福院も供奉した可能性が高い。
享保13年(1728)に地福院が退転したのち(『庁事類編』)、弟子松岡惣右衛門の松本院が藩の修験職を継いだ。松本院はしばらく地福院の場所にいたのであろうが、のち日南町へ移転(時期不詳)。そのとき三之町へ御幣や役行者面など祭具の一切を寄付し、毎年の祭礼、および疫病流行のとき松本院境内跡(正崇寺西隣)に勢揃いして渡し始めることを約束した。紺屋町の役行者面の箱書は「安永七年(1778)九月」であり、そのころ松本院から三之町へ移管したものか。鬼行列用品は地福院→松本院→三之町と移管されたのである。御幣は紺屋町・相生町・三之西町3町の共有、鬼面は3町が分有し今日にいたる(『伊賀上野紺屋町史』)。
主役の役行者面は紺屋町が所有。紺屋町は地福院・松本院が存在した所であり、また武家屋敷が極端に少なく町人が多く(相生町・三之西町は5割~7割が武家)、鬼行列の中心を担い得たのであろう。

 

  • ②徳居町の参加

    寛政10年(1798)頃、徳居町が鎮西八郎為朝が鬼を従える趣向で参加し始めた。徳居町の箱の銘に「寛政十午九月十五日 徳居町 諸事神事入用 肝煎半右衛門預り」とある。藤堂藩の重臣安並氏(為朝の子孫という)が、家に伝わる為朝に関する由緒を練物に仕立てたという。

     

    ③現行の鬼行列

    天保11年(1840)の木版「伊賀上野天満宮祭礼九月廿五日行列略記」は、ほぼ現在の鬼行列の姿である。概略は次の通り。先頭は大御幣。相生町の悪鬼。紺屋町の役行者。三之西町は三本の傘。そのうち一人は稚児らしい姿の若者(髷と公家らしい装束)、後二人は子供の山伏(現在は先達と称する子供の山伏一人のみ)。その後に釣鐘・笈持・斧山伏二人のひょろつき鬼。徳居町の鎮西八郎為朝。

 

④鬼行列成立過程の試論

藤堂高虎が翁の能面(のち役行者面となる)を地福院へ授与。高虎は寛永7年(1630)没。
地福院は毎年7月に大峰へ入峰し、藤堂家の依頼で護摩を焚き、出峰後、祈祷札を献上した。
 
寛文8年(1668)、三宝院門跡高賢が大峰入峰。→地福院が供奉した可能性あり。
貞享5年(1688)、藤堂高久が観覧したとき、まだ鬼行列の記載がない。
服部土芳作の『蓑虫庵集』元禄3年(1690)に、増長天と面が出ている。→鬼らしいものが登場。
延宝~元禄(1673~1704)ころ、地福院が三之町正崇寺の西隣へ移転。→地福院と天神祭が結びつく。
元禄13年(1700)に三宝院門跡高賢が入峰。→地福院が供奉した可能性あり。
地福院は三宝院門跡の大峰入峰に示唆された行列を考案し、秘蔵の翁の面を修験道の開祖役行者に見立て、風流の伝統から山伏ではなく、役行者が鬼を従者とし、多くの鬼を使役したという伝承から鬼の行列とし、さらに風流を際立たせた「ひょろつき鬼」を登場させたのではなかろうか。釣鐘・二本の大斧・笈のすべてが大峰入峰に関係する。笈と斧は入峯の儀式上の重要法具である。大斧二本というのも、三宝院門跡の入峯の影響と思われる。木版「伊賀上野天満宮祭礼九月廿五日行列略記」に描かれる高貴な稚児風の人物、つまり現在の先達は三宝院門跡に該当すると見られる。その先達が役行者の次を行くのは、役行者の後継者を意味している。三宝院門跡をそのまま登場させるのは憚られ、風流らしく稚児、もしくは子供の先達の姿としたものであろう。すると鬼行列は『蓑虫庵集』の元禄3年(1690)以降、元禄13年(1700)の三宝院門跡高賢の2度目の入峰、享保3年(1718)の三宝院門跡房演の入峰を経て、地福院が退転する享保13年(1728)までの間に成立したと考えられる。
享保13年(1728)、地福院が退転し、松本院が跡を継ぐ。
安永7年(1778)頃、松本院が日南町へ移り、三之町へ御幣や能面など祭具の一切を寄付。
寛政10年(1798)頃、徳居町が鎮西八郎為朝で参加し、ほぼ現行の形となった。

 

鬼行列が元禄頃、ダンジリが文化文政頃とすると、奇しくも元禄文化、化政文化が栄えた時期に相当する。それらは共に公家でも武士でもなく、町人の文化であった。また鬼行列の成立時期は修験道や大峰信仰の最盛期とも重なる。藤堂家が大峰祈祷を命じていたこと、上野の随所に残る山上詣の道標、西御旅の蔵王権現、上野天神宮・愛宕神社の本願である修験者小天狗清蔵の存在など、伊賀地方の盛んな修験信仰を見るとき、役行者を中心とした鬼行列が生まれる十分な素地があったと思われる。
 
※参考図書『三重県指定無形民俗文化財 上野天神祭総合調査報告書』、平成13年、上野市教育委員会発行。とくに久保文武氏執筆分)
(平成22年11月。平成29年8月改稿)

 
 
【資料提供】
伊賀市教育委員会文化財課 伊賀市観光協会 上野文化美術保存会 上野西部地区住民自治協議会 上野東町 上野中町 上野西町 上野向島町 上野新町 上野鍛冶町 上野魚町 上野小玉町 上野福居町 上野相生町 上野紺屋町 上野三之西町 上野徳居町 岡森泰造氏 島崎光俊氏 木村佳三郎氏